プロフィール

はじめまして。一野瀬 なつです。

ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

わたしは、ずっと会社に勤めていました。
もしかしたら、今読んでいただいているあなたと同じかもしれませんね。

そんなある日、わたしの人生に大きなタイミングが訪れました。

そこから劇的に人生が変わってしまったんです。

もちろん、「いい方に」です。

今思えば

もし、あのタイミングが来なければ
もし、あの後もずっと変わらない人生が続いていたとしたら


そう思うとぞっとするほどです。


会社に行くために朝早く起きて準備をし満員電車で通勤する。

会社では人間関係や仕事でヘトヘト…

残業が終わったらまた座れない電車に乗って帰る。

帰宅しても自由な時間はほとんど残っておらず、また明日の仕事のために寝る。


毎日毎日、その繰り返し。

住む場所は会社から通える範囲で決め
体調が悪くても必死で会社に向かい
会社が決めた休日で休む。

わたしの人生は、会社中心で成り立っていました。

もしかしたら
今のあなたもそうではないですか?


でも、以前のわたしは、そんな生活に疑問すら持っていませんでした。
それどころか、当たり前だと思っていたんです。

まわりの人も、みんな日々の愚痴を言いながら会社に行き、毎月変わらない給料をもらって、なんとか生活する。

みんな、当たり前にその人生なんです。


自分の力で稼げる人なんて
ほんの一部の「才能があるすごい人」だけだと思っていました。

そんなわたしが、今自分で稼ごうとしています。

わたしは決して「才能があるすごい人」ではありません。

どこにでもいる、一般人です。

たいして若くもなく
学歴がある訳でもなく
パソコンに詳しい訳でもなく
特別なスキルがある訳もなく
金銭的に裕福でもなく
人脈も全くない。

もしかしたら
一般人の中でも「何も持っていない方」だったかもしれません。

昔のわたしと同じように『これから先の人生の過ごし方』について疑問を抱き、立ち止まっている方がいれば、わたしの経験が今のあなたに少しでも役に立つのではないかと思っています。

 

【第1章】家族崩壊のはじまり(兄弟間の虐待)

 

私には兄と弟がいます。

ひとつ年上の兄は小さな頃から頭が良く、いたずら好きのいい兄でした。
でも、中学の頃、あることがきっかけで引きこもりになってしまいました。

そして、8歳離れた弟を自分の支配下に置き、自分の身の回りの世話をさせるようになりました。

そしてまだ幼かった弟を虐待していました。

私たち家族が兄から助けようとしても、家族に歯向かうようになりました。
家族に助けを求めたら、あとでもっと酷い虐待を受ける、そう思っていたんですね。


元々仲のいい家庭とは言えませんでしたが、この頃からどんどん私たち家族は崩壊していきました。


そして小学生の頃から、弟は自らたびたび行方不明になりました。
兄から逃れるためは、「逃げる」しか方法がなかったのだと思います。


公園や民家の庭に入って寝ているところを、警察に保護されては連れ戻されることを繰り返していました。


私の産まれ育った場所は、都会ではなく田舎です。

夜になれば、街灯もまばらで夜中に開いているコンビニもスーパーもないところでした。


そんな状況で、田舎の真っ暗で怖い夜を、幼い弟がひとりっきりで過ごしていたのかと思うと、今でもつらい気持ちになります。



父と母も仲が非常に悪く、特に母は精神的な病気がどんどんひどくなっていきました。

買い物に出かけると必ず店員と大喧嘩になり、最終的には暴れて警察に保護されるということを、毎度のように繰り返すようになっていきました。
一度ヒステリーを起こすと誰も止められないほど激しいものでした。


あとあと思えば精神的な病気だったのですが、実家は田舎で精神病院もなく、この頃は適切な治療を受けることはできなかったのです。


そんな状態だったため、近所や親戚や家族とも、頻繁にヒステリーを起こしもめるようになっていきました。


でも、私はヒステリーを起こさない時の母も知っていました。
家族想いで優しくユーモアもあり、私とは違った価値観や性格でしたが、人間らしい可愛らしさも、弱さも脆さも、たくさん持っている母でした。
私はそんな母を憎めませんでした。



私は高校を卒業すると、離れた土地の専門学校へ上京することになりました。

家族と離れ新しい道を進んでいましたが、逆に実家の状況はどんどん悪化していっていました。


弟はずっと兄の虐待から行方不明を繰り返し、その度に母は心配して探し回り、夏も冬も雨の日も嵐の日も、毎日かかさず何かに取り憑かれたようにお地蔵さんに拝みに行っていました。

 

【第2章】母の精神崩壊

 

専門学校を卒業し、東京で働いていた私に、父から連絡が入りました。

話を聞くと、父のカードをつかって母が数百万の借金をしていたとの連絡でした。


父は、出かけていっては警察沙汰になり、借金をする母をこれ以上管理できないため、私に助けを求めているだと感じました。


私は母を引き取り、一緒に暮らすことを決意したのです。

 

母を助けてあげたかったですし、父の負担を減らしたかったからです。


母もこれ以上、険悪な父と暮らすことは難しいと思っていたのか、同意してくれました。


岡山の田舎から東京で
一緒に頑張ることになりました。


当時私は、月15万円ほどのNPO法人の仕事をしており、その会社の寮で暮らしていましたが、この給料で母を養っていくことはできず、ブラック企業へ転職しました。

そして寮を出て、都心から離れた場所に部屋を借り、母との生活をスタートさせたのです。



私は新しい職場で、必死に働きました。
あとで知ったのですが、そこは誰もが知る有名なブラック企業でした。


母を診てくれるいい病院もなかなか見つからず、2人の生活は長くは続きませんでした。



私も仕事が忙しくなり、比例して母との時間がどんどん減っていきました。
家に帰っても、疲れて母の話を聞いてあげることも出来なくなっていきました。


母にとっては、知り合いが誰もいない土地で、毎日狭い部屋の中でずっと一人きりなのです。

私が会社に行っている時間、一人で孤独と戦っていたのかもしれません。



私も母の分まで稼ぐために、ブラック企業へ勤め毎日疲れていました。

そんな中、些細なことで喧嘩になることも多くなり、母の病気も悪化していきました。

 

本当は母と一緒にいる時間を大切にしたいのに、生活のために朝から晩まで働かなければならず、そんな毎日にお互い心の余裕もなくなり、本当に大切なものを犠牲にしてしまう生き方になっていました。


きっと会社にお勤めされている方なら、少しは思い当たることがあるのではないでしょうか。


雇われていると、いろいろな制限があります。
時間も住む場所も、人間関係も。

どうしても、
会社の制約を中心にして、生きていかなければならないのです。



そんなある日、警察から連絡が入りました。

母がまたスーパーで暴れ、警察に保護されてしまったのです。
急いで指定された警察署に向かった私は、建物の奥にある牢屋で母と対面しました。

母は冷たい牢屋の中で、警察官に暴言を吐き暴れていました。
私はそんな母を見て、涙が溢れずにはいられませんでした。


そして別の部屋へ連れていかれ、
県知事の命令で「措置入院」になることを説明されました。

 

措置入院とは

精神障害者が行う行為に自傷や他害に至る危険性があったり、入院させなければ自傷他害のおそれがある場合について、これを都道府県知事(または政令指定都市の市長)の権限と責任において精神科病院に強制入院させることができること。



そのあと、暴れる母は数人の警察官に取り抑えられながら護送車に乗せられ、重度の精神病患者を受け入れる病院へ連れていかれました。



真夜中に病院に着いてもまだ暴れ続ける母は、何人もの警察官に抑えつけられると、医者に注射を打たれ、タンカに乗せられ運ばれていきました。



その日から、私は毎週、片道2時間近くかけてその病院に通いました。

母はまるでドラマに出てくるような厳重に管理された病棟に入りました。


ブラック企業で朝から夜まで何時間も働き、休みになると病院に通う生活が数か月続きました。


お金のために自分の時間を売って、身を粉にして働く。
自由になれる時間も余裕もありません。


我慢や苦痛を伴うことで、お金が手に入る。
私はその生き方しか知りませんでした。


そして何年か経った後、私は自分自身がつぶれてしまいそうになり、
母は退院したあと、実家に戻ることになったのです。

 

【第3章】父との突然の別れ

 

母が実家に戻ったあと、いがみ合っていた父と母が、少しづつ会話をするようになっていきました。


もしかしたら、少しずついい方向に変わっていくのではないかと思い始めた矢先、母から連絡が入りました。

「お父さんが危ないらしい。すぐ帰ってきて」と。


わたしは当時、東京で働いていました。
あまりにも突然だったので、何がなんだかわからず、とりあえず新幹線に乗り、教えてもらった病院に駆けつけました。



病室に案内されると、身体にたくさんの管、口に呼吸器が付けられた父が横たわっていました。


近くには母が立っており「お父さん、なつが東京から帰ってきたよ」と父に話かけました。


この時はまだ父も少し意識があったようで、
呼吸器の下から苦しそうに「ああ、あぁ」とうなずいてくれました。


その翌日、父は大きな大学病院に運ばれたあと、たった2日で亡くなりました。
末期の胃がんでした。


母から聞くと、その日の朝、胃が痛いからちょっと病院で検査してくると言って出かけたそうです。
そのまま、あっという間に64歳という若さで帰らぬ人となりました。



病院の先生には「お父さんが病院に来られた時は、既に末期の状態で普通では我慢ができない状態だったはず。相当苦しかっただろう。」と言われました。



父は高血圧の薬を貰うためにずっと大学病院に通っており、亡くなる数か月前に受診した時、胃の調子が良くないと言っていたそうです。
病院側は父に検査を勧めたようですが、父は断ったそうです。


父は数年前から母がつくってしまった借金を返済するために身を粉にして働いていました。
きっと検査も、お金がかかるため断ったのだと思います。




父が亡くなり実家に帰ると、裏庭には最近父が作ったという丸いテーブルとイスが哀しげに置かれてありました。


父は、家族で食事をする光景を夢見て作っていたのかもしれません。

崩壊してしまった家族を、これから取り戻そうとしていたのかもしれません。




私たち家族は、
少しずつ絆を取り戻そうと、いい兆しが見えたところだったのです。


父の気持ちを考えると、苦しくて涙が止まりませんでした。


父は昔から家ではとても寡黙な人だったため、私は父と話をしたことがほとんどありません。

私にとって、父はこわくて話しかけづらい存在でした。


父は長い間ずっと地元で有名な鉄工所に勤め課長として働いていましたが、
ある時、会社の経営不振から突然リストラにあいました。


父の涙ぐんだ顔は、その時しか見たことがありません。


当時、私は思ったものです。
どんなに会社に尽しても、
会社は会社、家族ではないと。


父のように、会社を人生の中心に置いて身を削って働いても、
あっという間に切られてしまうのです。



定年後はゆっくりできるだろう、大切な人たちと好きなことをして過ごせるだろうと思っていても、残念ながらそれが叶うかもわかりません。

ずっと働き続けの人生で終わる可能性もあるのです。


これまでの時代は、父のように「家族や大切な人を守るためには、会社に何もかも捧げて働く」、こういった仕事漬けの人生が通常でした。

でも、今は違いますよね。



今の時代は、インターネットが普及して、自分で稼ぐ人生を選ぶこともできます。
それなのに、まだ仕事で埋め尽くされた不自由な人生を生きる必要があるのでしょうか?


会社に雇われている限り、
人生の時間をほとんど会社に費やし、
家族や友人との時間はどんどん削られ、
一生懸命働けば働くほど、なぜか幸せになれない。


そんな人生が、
これから死ぬまでずっと続くのかと思うと、とても怖くなりました。

【第4章】母との突然の別れ(悲しみの崩壊)

 

父が亡くなり、私は東京へ戻り、実家には母と兄と弟になりました。
昔、虐待関係にあった兄と弟、そして病気の母。


やはり上手くいくはずがなく、私は弟を引き取ることにしました。



そうして8年ほど経った頃、
仕事をしていると、夕方、兄から着信がありました。


母とはやり取りをしていましたが、兄とは不仲でほとんど連絡を取っていなかったため、少し戸惑いながらも電話に出ました。

久々すぎる兄の声は、ところどころ泣き声になっていました。


お母さんが倒れたらしい。
ヘルパーさんが見つけてくれて、いま警察が来ているらしい。
自分も今向かっている。今すぐ弟と一緒に帰ってくるようにと。


わたしは会社を飛び出し、
駅まで走っていると兄からまた連絡がありました。

走りながら電話に出ると、電話口から兄の震えた声が聞こえてきました。



もうお母さんは間に合わないかもしれない。
固くなっているみたいだと。


私は、多くの人が行き交う交差点で泣き崩れ、電話口に向かって「なんで、なんで、嘘だ、嘘だ」と我を忘れて叫び続けていました。


私は思考と呼吸が追いつかなくなり、倒れてしまいました。



そこから、会社の人や弟に助けられて実家に帰り、
冷たくなった母に逢うことができました。



母が倒れた日は、熱中症になるほど暑い日でした。

私は、たくさん泣きました。
涙が枯れるまで、泣きました。


私は、母ともっと一緒に過ごしたかった。
母は「寂しい」といつも言っていたのです。
何か欲しいものはあるかと聞いても、ただ「寂しい」と。


私が弟を引き取ったあとは、母は兄と2人で暮らしていました。
ですが、ある時から兄は実家を離れてしまったのです。



母は、古びた広い家で一人っきりになっていました。


私は、また母を東京へ引き取ろうかと考えていましたが、経済的に難しく実現できずにいました。


お金に余裕があったら、私がもっと一緒にいてあげれたのかもしれない。
もっと違う選択肢を選べたかもしれない。


母はいつも幸せになりたいと、人よりも願っていました。
そして人一倍、さみしがりやな人でした。


私は、長い間、母を一人にしてしまったことを後悔するしかありませんでした。

 

【最終章】生活が180度変わった人生

 

母の忌引き休暇後、わたしは会社に戻りました。

精神的に情緒不安定になりながらも、これ以上、会社のみんなに迷惑をかけてはいけないと必死に会社に向かいました。

会社に着くとお詫びの挨拶にまわり必死で自然体を装っていましたが、直属の上司への挨拶でもろくも崩れてしまいました。


当時、わたしは大きなプロジェクトを進めている途中でもあり、
そのプロジェクトの開始時期が迫っているところだったのですが、一緒に進めていたメンバーに進捗を確認すると私が居なかったため、何も進んでいないことが判明しました。


挨拶と併せて、準備が間に合わないため開始時期をずらしてもらえないか上司に相談しかけたところ、
わたしの言葉をさえぎり「プロジェクトの開始はずらさない。やるってなったら死ぬ気でやるんだよ!」と一喝されました。


忌引き休暇後、久々に会った一発目の言葉がこれでした。

母の突然の死で完全に涙腺が崩壊していたわたしは、しばらくトイレから出てくることができませんでした。


『会社は、家族でも友だちでもない』


そんなことは十分わかっているはずなのに、長く会社に勤めているから「会社は自分を大切に思ってくれているはずだ」と、どこかで期待しているところもありました。

そして私は、どこかで「この上司に認められたい」と思っていたことに気付いたのです。

もしかしたら、承認欲求の落とし穴にうまくハマってしまっていたのかもしれません。



私は、一気に冷めていきました。


知らず知らずのうちに、私は会社にとって、そして上司にとって、都合のいい人材として製造されていただけなのかもしれません。


会社のために働くのはもうやめよう。

ここではしあわせになれない。

転職してもしあわせにはなれない。



母の死で、私は自分自身と真剣に向き合いました。

わたしはどうしたいのか
なにを大切にしたいのか



雇われる人生は、時間・住む場所・人間関係、すべてに縛られながら生きることになるのだと気付いたのです。


私はそこから、自分で稼ぐために、ネットビジネスを必死で勉強することにしました。


もちろん、わたしにはコネもスキルもなく、パソコンも得意ではありませんでした。


でも一般人の私でも自分で稼ぐ方法は、ネットビジネスしかないと思ったのです。



会社に依存して生きる人生はもう嫌だと。
これからは、雇われずに自由に生きたいと。


有名になりたいわけでもなく、
地位が欲しいわけでもない。


私が欲しいものは

「家族や大切な人との時間を何より優先でき、好きな時間に自分のやりたい事ができること」


これがわたしの望む人生なのです。